ずーっと放っていたここ。しかしなんとなく消さずにいたここ。
こうしてブログという方法で書かなくても、オットとの会話、
義母との手紙のやり取り、Facebookで漏れ出させていた何か、
日々友だちと話す何かや、分析で話す何かで生きていっていた。
ブログにまとめて書かなくても、になっていたのではある。
あるが、それは一方で、ある程度の文章にまとめて表出するほど
じぶんのなかでまとまっていないとか、そういうことでもあるのかも
とも思う。
さて。表題の件である。
変わるし変わらないんである。当たり前だけど。
変わったことの最たるものは、親と連絡をとっていない、
ということかも。向こうからは断続的になんかめちゃくちゃな
アプローチがあるけど、一切こたえていないのである。
もうそうすることにしてだいぶ経つ。
今までは 親なのだから と、まったく違う地平にいる
と感じながらも、それをなんとかする必要があるのではないか、
そうすべきなのではないか と連絡があれば返事をし、
なんらかの形で繋がりを切らずにいた。
が、それをして何か変わるのだろうか。
あの人たちはもうそれこそ 扉の向こう に行ってしまった。
母であったところの人がこちらに住んでいた頃に奇しくも
「マンションのドアを勝手に変えられた!」という
ありえへんことを 実際起きたこと として
言い募ったわけであるが、それ、ある意味正しかったんよね っておもう。
彼女らのいるところが、この世とは違うドアの向こうになってしまった
ということなんだろう。あの時完全に あの人らのいる場所は
わたしのいるこの場所とは違う場所になってしまったということなのだろう。
そして、まだ こちらの世 と繋がりがあるのではと思っていた父も
すでに母の世界に取り込まれ、ドアが変えられたかどうかはわからない、
盗まれるということは本当に起きている、わたしのオットがひどい言葉を吐いた、
と信じることにしたようだった。そしてやはり、父は自分の意思で
わたしに何かを言うことはなく、アプローチがあるときはすべて
母に何か言われて、とか、母を落ち着かせたいから、でしかないことが
どんどんわかっていった。
あの人らとの落としどころがあるのかもとも考えたが、
母の妄想を、妄想なのでは、ということを進言することはできても
それを突きつけることはわたしにはできなったし、
突きつけたところで妄想なので、
そうするとこちらの世との落とし所はなく、
あの人らが満足するには、わたしがあの人らのいうことを認めて、
オットがひどい人だった、騙されてた、みたいに言って
あの人らのもとに戻るしかない。
でもそれは絶対にできない、というか、それはわたしという存在の死を
意味するから、このままこちらの世にわたしはいる。
そのためには 連絡をしない 反応してあの人らの思う方向に行かない
ということを徹底しよう、とようやく思えたのだった。
それが 変わったこと。
この先親が死んだり、その時親戚たちとどうするのか、とか
考えたら具合悪いことはたくさんあるけど、でも
わたしの精神が死なずに生き延びることができれば
そんなことはなんでもない と思える。
そんな作業の間も変わらないのは
仕事、フラ、友だち、オットやねことのまいにち。
そのことがあって、わたしの人生がつつがなく過ごせている。
そういう変わらない日々に支えられて
わたしの変わるべきところは変わっていくことができるのだ
と思っている。ありがたいことだ。
これからこの、変わらない日々にもそれなりの変化がありそう。
そのこともしっかり経験してやっていけるだろう。
変わるし変わらない日々がこれからも続く。