2014年1月12日日曜日

お正月を過ぎて

 ここ数年の それまでの30数年は何だったんだろう
と思えるくらいのいろいろな内的な変化は
わたしをどこに連れて行くのだろうか などとおもう。

 じぶんのいいところも ダメなところも
ここ数年でおもてにあらわれたのだな とおもう。
はっきりと。 あからさまに。 だから
生じることのインパクトは相当なもので
これまでのじぶんの外的な制約とか関係とか
ともかくそういったものが このように
変わらざるをえなかったのだろう。 かっこうよく 言えば。
もちろんその実は ものすごくかっこうわるく
そして ただもう 起きるはずだったことが起きて
そのただ中にいる ということなのだけれど。

 顔がかわった ということについては
ここでも何度も書いてきたけど
このたびはお正月に会った父に
「おまえは若いときより今の方がずっといいな」
と言ってもらえた。 

 きっと 父が思い描いていた ムスメ というものとは
大幅に違う とんでもないムスメと相成ってしまっているのだ
とおもうのにもかかわらず。 でも それでも
いま わたしがいまのわたしのこの顔でいられていることを
うれしくおもってくれているのだな ということが
やっとわかって ちょっと泣きそうになった。

 わたし が まえよりずっと わたし になっていて
かつて 触媒ぽくいることでごまかしてきたのであろうことや
あまえの塊のような ひどい本質のような部分が
おもてにくっきりと あらわれてしまうようにもなったし
それと同時に わたしのもつ ひどいわけではないところの
本質の部分も たたずまいとして おもてにあらわれやすくなって
そうしたら いろんなことがほんとうに変わってしまった。

 わたしがずっと じぶんをへんなふうに甘えさせて
いろんなことを実はなまけていたからだろう とおもう。
こんな極端なことに なったのは。

 それでも いまの顔が これまでの人生でいちばんいい
という その事実は変わらないし わたしは42歳にならんとしている
いまから ようやくまた わたし をはじめていくのだろう。


*****************
 
 実は ことしはリコンしてはじめて 元ダンナと年賀状を
出し合わなかったし いま元ダンナがどこに住んでいるのか
わたしは知らない。 引っ越す ということは 春に聞いたけど
住所をわたしは尋ねなかったし 彼も言わなかった。

 それから 去年の正月にこじらせてた若い彼のことも
もうほんとうに連絡をとらないでいくんだなぁ と思ったし
風のうわさに ちゃんと大学も卒業したと聞いて うれしかった。

 めんどくさかったなー とか 最終的には
とんでもなくイヤなひとだったなー とか
そんなふうに思われたくない と強く思っていた。
そこそこ きちんと関係したひとには。

 でも そのひとの人生の物語のなかで わたしとの関わり が
どんな役割のものとなるかは もうわたしの本質のようなものとは
関係のないことだから そこはどうでもいい と
思えるようになった。 もし めんどくさい とか
イヤなひとだった と思われているとしたら
それは わたしがほんとうに そのひとにとって
そうとしか思えない言動をとったから なのだし
だから そこはどうあっても訂正できない。

 わたしの中で どういう意味を持つか ということだけが
わたしにわかりうることだ というのもある。

 ほんとうに一時代終わったんだ とおもう。

******************

 ひりひりと痛む ずきんと痛む そういうものは
もちろんあるけど 生きていくね。 





0 件のコメント:

コメントを投稿