2014年1月29日水曜日

まぐちのこと

 お正月やすみがおわってまだそんなに間がないうちにまたおやすみ。
なんてステキ。

 てのはともかく。

 41歳なんだよね とかしみじみ思ったわけです。
年齢なんて関係ないじゃん とはよく言うし じぶんでも
そうだなー っておもうことも多いし でも。
でもね やっぱり 41歳なわけです。 41年と5ヶ月ほど
生きてきてしまっているわけです。当然 いろいろあるわけです。
こころにも からだにも。

 じんせいでいちばん とおもうような こころの変化が
ここ2年くらいであったものだから わたしは残念ながら
いまがこう モラトリアムの終焉 みたいな
そういう甘い感じのこころもちでいるよな実際のところ。
ということに はた と気付いてあわてたりすることがあります。

 もちろん どうあっても じぶんが何歳であっても
そのときのじぶんが経験すべきことをきっちり経験しない限り
いつまでもそのことはやってくるし それを
何歳くらいでやらなきゃいけないか とかにそう決まりはないのだけれど。
でも。 そうはいっても やっぱり 世の中 で生きている以上
それなりの和をもって 生きてゆきたい となると
年齢相応の何か というもの そういうものさしでじぶんを点検する視点
みたいなものは 必要なのだろうな などと思ったりもするのです。

 ややこしいけど。

 ところで じぶんのみのまわりにはだいたい
じぶんに相応したひとたちが集まってくるわけですけれど
それが縁というものだし ステージというものだし
そしてそのステージとやらは 断絶しているもの ではなくて
こう スペクトラム的な感じで連続しているもの
なのですよね。 だからやっぱり ぜんぶはどこかでつながっていて。
しかもそれには上下とか左右とかそういう概念を超えたもので。たぶん。

 あぁまだ全然ちゃんとクリアになってないことを
書き出したので言ってることがめちゃくちゃだけれど。


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 ところで(2度目)。 「おまえは間口がひろがったな」と
大学時代の同期に言われました最近。

 20年まえから間口がひろがるのはある意味当然だけど
そしてちょっと上からな感じで言われちゃってるけれども
実際わたしのハタチ頃というのは ほんとうに きゅううっと
小さかったとおもいます。 いまも そんなに 間口がひろい
わけではないとおもうし。 でも つい最近まで
年相応以上に間口が狭すぎて そのことはわたしを守ってもきたし
けれど わたしを残念なままにもしてきたと思います。当たり前か。

 間口の狭さは ある種の枠 のようなものにもなっていた
のではないかと思います。 わたしが枠みたいなものとして機能してたことも
あるのではないかとおもいます。わたしと関わるひとたちの
一部にとって。 あ。書いてるうちに そりゃ誰でも
つきあっているひとたちにとって 枠 になりうるし、そういう役割は
果たしててあたりまえだよな と思ったけれど
なんていうんでしょうか。 狭いがゆえに 枠になりやすかった
みたいな。そういう。

 そのかわり ある時期 がすぎれば その枠は ちいさすぎたり
かたちがおかしすぎて居心地がわるかったり していくこともあって
まぁそうなると 離れてゆくよねひとは。 さらに
触媒ぽい性質とあいまって なんかもう ていう感じだったな。

 人間としてのうつわ みたいなことのはなしだけど。
要するに めっちゃうつわが小さかったよねおまえ 
て言われたっていうことなんだなぁ と気がついたよなう。
わたしはじっさい ちいさいうつわしか もっていなかったのだけれど。
そして そのことをどうしても 認めたく なかったのだけれど。

 でも もし「間口がひろがったな」と言ってくれたそのことばが
ほんとうだとしたらうれしいし わたしはもっとこれから
開いてゆきたい。ひろがってゆきたい。わたし自身の世界を
ひろげてゆくために。 だれかの枠になることだけを 求めずに。


 

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