これでいい みたいなことをおもいそうになると
いつだってちゃんと つぎのこと が起きるし
放っておいたら これまたいつだってちゃんと
そこに向き合うまで 何度でもおなじことが
起こりつづけるのであった。
主体性のなさ みたいなことをまえに書いたけれど
主体性のなさ と わたしがわたしが てやることは
実は同時に起こることができてしまって
というか 同時に体現しているのがわたくしの現在なのだった。
相手とともにあるときに 相手の思いを無意識に汲み取って
そこを増幅させてじぶんのものかのように見せてみる
というようなことをするのがわたしは得意だったし(触媒体質)
そこが主体性のなさ のようなものと結びつくことが
多かったようにおもう。
と 同時に、(まぁこんなBlog書いてる時点で
まるわかりなんだけど)わたしは じぶん語り みたいなことが
だいすきで 語り まで言わずとも
なにした これした あれみた 的なことを
みてみて!きいてきいて! と ちびっこだけだよ
それが許されるの てな方法でふりまいてしまうのだった。
ちょっと仲良くなると。
で、あぁ言っちゃったけどこういうのがダメなんだよ〜、
と 言ったあとで気付いて、でもどこかで甘えているから
そういうひとなんだよなぁわたし みたいにちょっとごまかして
終わらせていたりもしてきて、そうるすと
いつまでもいつまでも ひやっ とすることが起きつづける。
すばらしい仲間とせっかく出会えて
これからもつないでいこう とするそのときに
わたしは知らない間に甘えを全開にしてしまうのだろうな。
これはずっとまえに書いた 天真爛漫 みたいなこととも
つながるけど、そこをわかってよ! とか
だから仕方ないよね! みたいにして たいせつななにかを
とりこぼしてしまう。 気がつけば 甘えよう と
してしまう というのに近い。 それはなんかダメだろう。
わたしがわたしのままであってほしい
わたしをのびやかに出してほしい
とか 言ってくれたひともいたけれど
でもやっぱり それをやろうとしたところで
だいたい間髪入れず ひどい! と言われることが多かった。
甘えようとする という 素 も出るからだろう。
適切に頼る というのではない、べっちゃりした甘え。
それは決して求められていない部分だし、
そんなもの誰だって向けられたくない。わたしもイヤだ。
乗り越えるべきはやはりそこで。
いろんなことががらっと変わってしまったいま
わたしを劈く ということが
すこしずつわかりはじめたいまだからこそ
ここはわたしの正念場なのだろう とおもう。
0 件のコメント:
コメントを投稿