2013年4月16日火曜日

ひよっこ40

 ここしばらく まえにもアタマでは何度も考えたり
そうなんだよね と思ったりしていたことを
ことごとく こころのそこから もうそれはそれは
いろいろな思い(忸怩たる ていうようなしんどいのから 
爽快感 みたいなちょっといい感じのまであらゆるもの)とともに
そっかー ねぇ そういうことだったんだよねえええぇぇ
などと感じて 表にはわからない程度に感極まる ということが
とても多い。 という意味ではいそがしいです。きもちが。

 けども 平和です。 なぜなら フォーカスしてるのは
あくまでも わたし自身 だからなの。 わたしがわたしのために
考えたり 感じたり しているからなの。 そうすると
ほんとうにたいせつにしたい とおもうものが ふわっと
浮かび上がって 逆に もうこれはどうでもいい というか
こういうふうなものを近づけておくとしんどいな というものが
ぐっと沈んで見えて そこに無駄にエネルギーを割くことがなくなった
ように思うのよ。 

 ほんのすこし 前までのわたしだったら ちょっともやもやしてても 
もやもやはあとまわしにして 相手がイヤな思いをしないよう というより
相手にちょっとトクベツに思われよう という格好悪いことこのうえない
不純な動機で はなしを合わせて わたしの中にもすこしある何か を
ひっぱりだして それを増幅させて過ごしていた のではないか
とおもう。 そうじゃないこと もあったけど そうであること
が多かったんじゃないか とおもう。ださい。

 でも もう もやもやしたこと は もやもやする と
はっきりわかる。 わかったら それは テキトウにして
近づけなければいいだけだ。 心地よい空間や世界は
そうやって じぶんがきちんとじぶんと向き合って
わきあがるものを なかったこと にしないで
真摯に取り扱って 作ってゆくものなのだな。

 アタマではもちろんわかっていた。
けれど こんなにからだとこころにも沁みてわかったのは
はじめてのことだ。




 たとえアタマだけ であっても とにかくまずは
気付くことがたいせつだ とはおもう。 けど
じぶん自身が じぶん自身の経験(出来事を経る というだけでなく
ともかく みずからの何かをつかって経る というそのこと)を
通してでないと なにもほんとうにはわからないのだ。
し、 わかった と思っても そこからまた 次にすすんでいて
また あぁあのときはまだまだだった とか 
こんな深さがあったのか とか いろいろとまた
わかって ゆくのだろう とおもう。

 どうしたって どんどんあたらしく わかって ゆくのに
わたしはどうしてこれまで アタマ でわかったふりをして
たくさんのことに目をつむってきてしまったのだろう。
誰かの何か ばかりを目指してきてしまったのだろう。

 四十路ってまだひよっこだな。 て ひよっこじゃないと困る。
ひよっこだからこれからがたのしみ ともいえるんだもの。


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