2013年4月1日月曜日

わたしのしごと

 人生には だいたい必要なことが起きて というか
それを必要だ と思えるかどうか というところに
生きるこつ みたいなのがあるのかもしれないなぁ 
などということを感じたのだった。

 運命は決まっていて そして同時に自由である
という 甲野せんせいのことばを くりかえしくりかえし
別の言い方とか じぶんのタイミングで気付きなおしているだけ
ともいえるのだけれど。

 ほんとうにこれこそが 人生の真髄なのだろう とおもう。

 そんなことを考えているうちに
たとえばスピリチュアルなんちゃら とかによくある
(ほんもののスピリチュアルはそういうことは言わないので
それとは違う ということは断っておきますけれど)
1回のカウンセリングみたいなのでそのひとの何かを解き明かす
とか そういうことにじぶんが向いていかないのはなぜか
ということにもちょっと思い当たったりもしたのだった。

 だいたい そういうのをやってるひとのうたい文句に多いのが
じぶん自身もその考え方に救われたからそれを広めたいと思い
みたいな そういうやつ。

 あのさー そりゃね 当てはまるかもしれないけども。
その考え方で救われるひと というのは いるかもしれないけれども。
これは わたしの性質の問題かもしれないけれど
そういうはじまりだと わたしはどうしても じぶんを上の立場において
その活動をしてしまうとおもうのよ。わたしはいまとってもシアワセ。
だからあなたにも! ていうようなね。 何様や いうねん。
て なってしまいそうでね。

 わたしが考える ほんとうにそのひととともにある というのは
その立ち位置では 絶対にできないことなんだ。
ともにそこに身を置こうとし 苦しみをわかろうとし
そのひとだけの そのひと自身の そこから抜けてゆく道を
ともに見つけてゆこう とすること。 それが わたしの求める
わたしの目指す在り方で だから
「わたしがシアワセになった考え方をもとに さあ!」っていうのは
もう根本的に受け付けられない感じがあるのだった。

 もちろん そういうのでシアワセになられる方もおられるだろうし
それはそれでいい。そういうのがあってもいい とは思う。
が わたしはそういうやり方で 誰かとともに ということを
おこなうことは どうしてもどうしても できない。

 わたしは自らを ある程度 心身ともに健康な状態に保ちつつ
そのうえで 相手のひとの そのひとだけの在り方 を
ともに在ろうとしながら ともに感じ模索すること をよしとする。

 だから 1回の何か ですべてが晴れるような そういうものを
提供することはできないのだ とおもう。 わたしの仕事は
教え導くことではない。 あくまでも ともに在ること だ。
しかし ただともに在る のではなく 少し先を見通す努力 を
常に常にしながらともに在る ことが仕事で、
そこにわたしの専門性があるのだ、とおもう。

 ま、その感じ(1回でなんとか)のひととは役割分担 
みたいなことなんだろうけどね。
その感じがいいひとはその感じのところにいくし
それでもどうにもならないひとは わたしのようなひとのところにくる。
ただそれだけのことなんだけど。

 でも だからこそ わたしはわたしの立ち位置を
わたしの在り方をたいせつにしよう とあらためて思いました。
これからもこつこつといきます。




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