2013年4月17日水曜日

次の望み

 ひとつぬけたな とおもうと やっぱりすぐに
つぎのなにか というものに気付いて けれど
そういうしくみなのだ ということは ちょっと
知っていたから そこまであせることもないのだった。

 そして そういうふうに 次々何かは起きて
というか わたしのこころに響くなにかは
わたしがじぶんにウソをついたり ごまかしたりしないでいれば
いつでも生じて わたしはもっともっと わたしとして
の 在りようを深めてゆくことになるのだ。


 ということなのだけれど。
そういうことを どんどん感じるまいにちにあって
いま パートナーなり すきなひとなり が
いない日々でも じゅうぶんシアワセであったり
充実もしているし 生きていられるものだなぁ と
思うけれど ふと なんでもない時間を共有したり
くだらないことを言い合ったりできる
そういう男性がいたらいいのにな と思うことも
出てくるようになったし
もっといえば じぶんよりたいせつな存在がこの世にある
という いまのわたしには想像するしかない
じぶんの子がいる ということを
じぶんの子を育てる ということを
経験してゆきたい というようなきもちも
大きくなっているなぁ とおもう。

 もうあと4ヶ月もすれば41歳になるわたしにとって
子を産む ということは いますぐ妊娠したとしても
かなりのリスクを伴うのに まだ父親になってくれる
という候補となるような男性もいない。 にもかかわらず
こんなふうに思うようになったなんて ほんとうにほんとうに
遅すぎる。 あとたとえ 2年でも 1年でも 半年でも
はやくにこう 思えていたなら。 わたしがたとえば
あと2歳でも 1歳でも 半年であっても 若かったなら。

 けれど 40歳と8ヶ月弱のいま でないとわたしはこういうふうに
思うことができなかったのはどうにもできない事実であるし
そう思うようになったから じゃあそうして 子を産む
ということにつながるか というと そうなるかどうかは
ほんとうにわからなくて 子を育てたい と思うようになったのに
それが叶わない人生になり そのことを受け入れて
そのエネルギーを何かに還元してゆくことになるとしても
どうなっても それは わたしがわたしになってゆく過程のひとつ
となるのだ。

 しかしながら。 能動的に望んで何かを求めてゆく
ということを わたしはこれからの人生で もっとやってゆこう
としている。 そういうときにきている とこころからおもう。
ので、パートナーのことも子どものことも もっと望んで
そういうこころもちでいこう とおもう。
かっこわるく切羽詰まりたくない なんて 思わずに。

 わたし というにんげんの 人生の過程に
この先起きることを わたしはすべて わたしの手で
わたしのからだで わたしのこころで わたしのアタマで
すべてすべて わたしが経験して そうやって生きてゆく。





 

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