というようなはなしをよくとあるトモダチとしました。
「不器用なわたし」プレイ
「わかっているけどできないわたし」プレイ
「ふつうにとけ込めないわたし」プレイ
などなどなどなど。
じぶんのことをよく知っておくと なんだかご利益がある
とおもうけれど どれだけわたしがわたしのことを知っても
もっとその先に わたしのはかりしれないわたし がいて
思わぬときに 思わぬことをしでかしたり あらわしたりしてくれて
そういう瞬間が もしかすると 生きてる という感じを
強く感じさせてくれるのかもしれない。
ていう 「俯瞰めいたことを言ってるわたし」プレイ。
ともかく その奥にある わたしもはかりしれないわたし が
作り出している わたし という全体をまもるためのものが
いまこのときにあらわれている プレイをするわたし なのだろうな。
まぁ説得力はない。
「わけわからんこというわたし」プレイ。
てことでいまからわたしは 「身体を動かしてる意味を感じてるわたし」プレイ を
やりにいってきます。
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