2012年10月21日日曜日

いまのことがら

 経験すべきことが 経験すべきときに 経験すべきように
ただ 起きているだけなのだろう。 というか 意味なんてなくて
ともかく 起きる出来事 というのは もうどうしたって 起きてしまうのだ。

 Twitterをやっていた頃に 武道家の甲野善紀せんせいが
「運命は決まっていて それと同時に自由である」
ということを言っていて(このとおりに言ったかどうかは定かではないのだけど)
わたしはそのことばに非常に感銘を受けたのだった。

 なにがどうあっても どうしていたところで
いま目の前に起きていること いまここにある状況がすべてであって
もうそこにあることをこつこつやっていく以外に
わたしにできることはない。
そして だからこそ 起こる出来事がいくら決まっていても
自由なのだ。 目の前に起きていることを どうとらえて
どう感じて どう(内的に)作業するかは わたし以外の
誰にも決めることはできないのだ。

 起こった出来事はすべて もう どうしようもなく起こったことであって
特に わたしが選ばれしものだから でも 選ばれなかったものだから でも
どちらでもないのだ とおもう。

 ただただ 目の前のことに取り組むしかない。

 おそろしく孤独なこころもちになったり 実際 
こころから伝え合おうと思い合えるパートナーとなるひとと
この歳までいちども出会っていない というか 誰かとそういう関係を
築くことができないできたことに 絶望的な気持ちになることもある。
残念ながら まだそんなこころもちになることもある。

 けれども。 どうせ決まっているのなら
このいまのこの感じを 生起していることがらを 
わたしは経験しつくそう。



 ほんとうは 起こることに意味なんてない。

 そのことを知っているけれど でも 起こることには 流れがある
ということも 感じざるをえない。 

 その 意味なく起こる現実の出来事と わたしが わたしになろう とする
その動きによって 流れとか 意味とか そういうものが生まれている。

 誰かとともにする時間は そういう みんなそれぞれひとりひとりが持つ
流れや意味とも 出会う時間なのだろう。 それすらも 意味のない
起こるべくして起きているひとつの場面にすぎない。 けれど
やっぱり 生身のひとが関わっているから そこにまた
流れや意味が たちのぼってきてしまうし、それが人生の醍醐味なのだろう。

 何言ってるのかようわからん感じになっているけどともかく。
わたしは いま とてもさみしくて でも同時に とてもしあわせで
しんとしたこころもちで と同時に わくわくも している。

 いつでも来なさい次の出来事。 わたしはぜんぶを やりつくすから。




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